peperonia’s blog

月のテレポーテーションに小指を引っかける人の物語

阪神淡路大震災

95年の1月17日ですから

僕は当時8歳…ですね。

 

今でも思ってることですが

大変だったのは『大人』で

僕自身は、さほど大変だったとは思っていません。

 

他の子供がどう思ったかは分かりませんが

 

少なくとも、僕の認識では

『大変だったのは大人であって子供ではない』

という認識があります。

 

 

だからこそ、現状の「国家ぐるみで一つ処、万物平等』とまで

言いたいかのような状況に関しては今一つ腑に落ちません。

 

これは、あくまで「阪神淡路大震災当時の僕の心情から来る現時点への考察」です。

 

 

 

地震の時は寝ていました。

 

うねりの中で光を見ました。

 

凄まじい横揺れだったのを覚えています。

 

本棚が倒れてるなあ、と思った束の間、父親が血相を変えたような声で

問いかけてきました(扉の向こう側)

 

僕と兄は南側、父と母は北側の部屋でした。

二段ベッドで僕は上段でした。

 

僕はその時初めて「親父がこんな声を出すんだから、ただ事じゃないんだな」と

思いました。

 

その段階では本棚が倒れてるな、としか認識していなかったので。

 

下の階に降りると、まぁ物は何もかもが無茶苦茶で

足の踏み場もないぐらいでした。というかなかったです。

 

やむなく上の階に戻るように言われて戻った気がします。

 

僕が覚えている会話は、あと一つ。

 

僕は父に『出かけていい?』と聞きました。

 

家の中がこの惨状なら、きっと外も同じように凄いことになっているだろう。

なら、自分の目でその惨状を見ておきたい。

今見ておかないと分からなくなるだろうから。

 

そう思って「出かけていい?」と聞きましたが

 

今から思えば当然ですが「危ないからダメだ」という感じのことを言われました。

 

ただ、即答ではなかったような気がします。

 

一瞬、間があったような気がします。

 

その一瞬、父親が何を想ったのかは、僕のことではないので分かりません。

 

 

不思議なことに

震災当日、兄の声を聞いた覚えはありません。

 

 

この震災で、避難所生活は僕はしませんでした。

 

なので、「小学校が避難所になって、たくさんの人がそこで生活をしている」

給水車も来ている」と後で言われた時は

あまりピンと来ませんでした。今でも分かりません。

給水車そのものも、僕は結局見ていません。

 

幸い、工場が伊丹で、そちらは被害がまだマシだったので

そちらから水なんかは工面できたみたいです。(みたい、というのは確証はないです)

 

消したtwitterで書いたことなので重複になりますが

 

震災後、数日~一週間以内かな。おじの家が池田か豊中にあって

お風呂を借りに行くことになったのですが

 

普通に信号がついてて、人がスーツ着て普通に歩いてて

普通にコンビニが開いてて、どこもでこぼこじゃなくて

『何もかもが今まで通りで』

 

『僕が住んでいるところは何もかもが今までとは違うのに』

『たった10kmほどしか離れてないのに、何もかもが今まで通りで』

 

 

これが、僕のすべての死生観・人生観に繋がっています。当時、そう、僕は8歳でした。